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2018.03.20 ブログ

飯田下伊那菓子の歴史

飯田下伊那といえば「水引」「焼肉」「美容院」などが有名ですが、「菓子」も独特の進化を遂げています。

今日はそのお話をします。

 

飯田市は飯田城を中心に栄えました。その町並みは「小京都」といわれ、碁盤の目のようになっているのが特徴です。昭和22年の大火によりその大半は失われてしまいましたが、再びその街並みを取り戻し現在でもその雰囲気は残されています。

 

飯田市には近畿地方から東山道を使って様々な文化が入ってきました。中でも茶の湯は特に親しまれ、菓子もまた重用されていたようです。「茶話会」という集まりがあるように

信州人はお茶と漬物と菓子だけで何時間も語れる文化がありますね。(以前TVでも紹介されました。)

 

菓子は元来嗜好品ですが、社会の経済事情が好転すれば需要は拡大していきます。明治時代、飯田市では養蚕業が活発になりました。その結果が直接間接的に菓子の需要を増大させました。

当時養蚕は生糸の輸出と技術の革新により莫大な収入源となるため、こぞって事業を始める人が増えました。飯田市の養蚕家もまた事業拡大のため2階に繭室を建て寝る場所さえも惜しんで飼育をし、定時臨時に人を雇いました。その茶請けとして菓子を常備していたというのです。まさに「需要の拡大」ですね。

現在では養蚕業はすっかり減りましたが、これを「結いの文化」と名づけ飯田人の助け合いが表現されています。

 

今よりもずっと貧しい時代です。茶請けにする菓子は干菓子が多かったようですが、「生菓子」と「干菓子」の中間品である「半生菓子」が昭和の頃より親しまれ、業者も増えていき飯田線の開通、戦後の復興から、技術の革新、そして中央道の開通によって賞味期限が比較的長い、手頃な値段の「半生菓子」は飯田下伊那の地場産業として全国シェア40%になるまで拡大していきました。

 

弊社はそうした文化背景により「生菓子」、「半生菓子」に使われる最中種メーカーとして今日までご愛顧いただいております。

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