2018.03.15 ブログ
最中(もなか)の由来 その3
では、この信州伊那谷には「最中」はどのように入ってきたのでしょう?
「飯田万年記」には次のように記されています。
幕末江戸の桜田門で井伊大老を暗殺した、水戸浪士の一団が今の高森町辺りを通った際、浪士の一人が道端の一軒の店に立ち寄り、「最中を呉れい」と云う。しかしおやじは「最中」なるものがどんなものか判らずに困却していると、その浪士は「それだ・・・」と云うて、当時「鏡山」と云って中に黒蜜を入れた菓子を指したので、おやじはああこれのことかと始めて納得したと伝えられている。このことからのちこの信州伊那谷でも「最中」と云う菓子名が通用するようになったといわれています。
享保2年(1717年)飯田藩では、庶民の商売について一定の制限をしました。この制限の中に菓子も含まれ現在の飯田市鼎上茶屋・下茶屋はその販売を許された地域として指定されました。弊社が発祥した地でもあります。
まさに、歴史の元に弊社が菓子作りを始めたことになりますね。